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社会生活を営む上で、しばしばマナーや、モラル、常識といった言葉で、個人の自由が制限されることがあります。
この状態が進むと、権威や、国家権力からの個人への干渉、制限が厳しい権威主義、全体主義となります。
ミルは、権威が持つ不寛容さに警鐘を鳴らし、個人への干渉は限定されるべきだという自由論を唱えています。
リバタリアニズム(完全自由主義)が進むと、リーマン・ショックのように市場の暴走を生んでしまいますが、個人の自由を制限するような法案が増えてきた今、もう一度自由について考えてみるべきかもしれません。
国を愛するひとびとが求めたのは、支配者が社会にたいして行使できる権力に制限を設けることであった。そしてこの制限こそ、彼らのいう自由の中身であった。
人が良いと思う生き方をほかの人に強制するよりも、それぞれの好きな生き方を互いに認めあうほうが、人類にとって、はるかに有益なのである。
個人の自由には限度というものがある。つまり、他人に迷惑をかけてはならない。
国(支配者)が、どこまで制限をかけることが出来るのか。ミルは、市民社会での個人の自由を考察し、反対意見を尊重する言論の自由を説く。
普通と個性、個人と社会、自由とは何かを考える為の一冊。
ふつう、議論の場で不穏当とされるのは、口汚い非難、嘲笑、人身攻撃といったものである。そういう武器の使用を禁ずることが、対立しあう双方にひとしく提案されるのであれば、おおいに納得できる。
そういう武器が弱者にたいして用いられると、武器使用の弊害はもっとも大きくなる。そして、そのような武器を使った主張のしかたから、ほとんど一方的に不当な利益を得るのは、世間で受け入れられている意見のほうなのだ。
支配的な意見の側にこそ、相手を中傷非難する表現を控えさせることが重要なのである。
先日ですが、都議会で女性議員に対してのセクハラヤジが問題になりました。
「ヤジは議場の花」などという意見もあります。
上手いヤジは、論敵も笑いを誘い議論が盛り上がる、などと肯定的にとらえる人もいますが、多くの場合発言を遮る為の目的となっているようで、都議会のヤジは下品で、発言者にダメージを与える為であり、まさにその一例と言えるでしょう。
上記で引用したように、ミルは有利な立場から発せられるヤジによって侵害される言論の自由を問題視しています。
多数である男性意見で、少数意見を封じ込める。悪気があったのなら問題にすべきですし、悪気がないなら大問題にするべきでしょう。
市民の代表者、そしてそれを選ぶ我々投票者はもう一度、言論の自由について学ぶべきなのではないでしょうか。
しかし、一部のマスコミの女性議員の過去を引っ張りだして攻撃し、論点をずらす手法には腹だたしい限りです。
女性議員の適正より、言論の自由が侵害されていることに目を向けて欲しいものですよね。今回の件では。
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